ホロコーストの陰にダーウィンの影響があるという話

 

先日NHKスペシャルで、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の前に、精神病者などの虐殺が先に行われていたことを見ました。

以下要約。

 

…ダーウィン(1809〜1882)の「種の起源」にある、強いものが生き残り、弱いものが消えていくという自然界の摂理を説いたものを、人間に当てはめ、劣等な人間は淘汰される、としたのが社会的ダーウィニズムである。こうした思想は優秀な遺伝的素質を持つ人間だけを残そうとする「優生学」と結びつき、世界中に広まった。ヒトラーはこの思想に目をつけ、国民全体を良くするためには無価値な者は殺してもよいとし、「遺伝病の子孫を予防する法律」通称「断種法」の制定や、治る見込みのない病人や障がい者は生きる価値がないので殺してもよいとする「T4作戦」を実行した。たくさんの人を一度に安楽死させるため、ガス室が作られ、ドイツ国内に何箇所もそのための施設が作られた。満員のバスが連日施設に向かうのに、帰りのバスはいつも空っぽ。施設の煙突からは毎日黒い煙がのぼり、いやな匂いがただよっていた。町の人は何かおかしいと気づきながらも誰も何も言えなかった。携わっていた医療従事者は、正しいことをしていると教え込まれていた。そういうことがあったので、ユダヤ人大虐殺に安易に移行しやすかった。…

 

ダーウィンは、「種の起源」を書いたときにはまさかこんなことになるとは夢にも思っていなかったと思いますが、やはり進化論には、危険な要素があると言わざるをえないと改めて思いました。

聖書にはこうあります。

 

初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)

 

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、…略… を造られた。神は見て、それを良しとされた。(創世記1:25)

 

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネの福音書9:2〜3)

 

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(第1コリント12:22)

 

などなど

 

 

別の話になりますが、iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中教授が、iPS細胞の働きについて「すごいですね〜!!」と人から言われた時に、ぼそっとこう答えていました。

 

「私は神様のまねをしているだけです。」

 

この方は、研究をすればするほど、人間の体のつくりのすごさに驚き、これを造った神はすごいと驚き、神の造ったすごいシステムを少しでもみならってより良い医療にしようと謙虚に研究されているのだなあと思いました。

 

進化論者は、創造論を非科学的だとばかにしますが、やっぱり真の科学者というものは、世界を創造した神に驚き、神に敬意を表するものではないかなあ、と思った二つのことでした。

| - | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
霊的な働きの成功は祈ることにかかっている

あらゆる霊的な働きの成功は、祈ることにかかっている

 

私たちは何を求めているでしょうか。人生における私たちの真の目標は何でしょうか。確かに私たちは、何よりもまず主の奉仕において豊かな実を結ぶことを願っています。地位や名声、権力を求めてはいませんが、実を結ぶしもべになることは切望しています。だとしたら、多く祈らなければなりません。

 

〜「祈ることを教えてください」ある英国の説教者 より〜

 

| - | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
偉大な指導者は忍耐する

「また、あなたのそばには、バフリムの出のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼は、私がマハナイムに行ったとき、非常に激しく私をのろった。しかし、彼は私を迎えにヨルダン川に下って来たので、私は主にかけて、「あなたを剣で殺さない。」と言って彼に誓った。

 だが、今は、彼を罪のない者としてはならない。あなたは知恵のある人だから、彼にどうすれば彼のしらが頭を血に染めてよみに下らせるかを知るようになろう。」第1列王記2:8、9

 

 

 

ダビデ王は、多くの敵と戦ってきました。また、身内にも悩まされてきました。

晩年のダビデはここで、後継者ソロモンに、謀反を起こす可能性のある者の名前を挙げて、知恵をもって処罰するようにと助言しました。

 

権力世界の厳しさを感じる所ですが、私は今回、ダビデ王のそれまでのふところの大きさが教えられました。

ダビデが最も辛く苦しい時に、ダビデをののしり、石を投げてきたシムイ。

その他、勇敢な軍団長だったけれどもダビデの命令に従わないところのあるヨアブ。

そのような人たちを、何らかの策略があったのかもしれませんが、とりあえず自分の在位中は、自分の配下に置いたまま、軍を統率し、国を導いてきたわけです。

 

世の独裁者は、自分に対して良くない態度をする者、またはそのように疑われる者を、すぐに粛清します。指導者としてやりにくいからでしょう。しかしダビデはそうしませんでした。

 

何らかの難しさのある人を、自分の配下に置きながらも、力強く導いていける人が、本当に偉大な指導者なのだと教えられました。それは簡単ではないと思いますが、ダビデは主に依り頼み、主の知恵と力をいただいて、それができたのだと思いました。

 

| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
割り当てられている人たち
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。

あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

第1ペテロ5:2〜3
| 聖書 | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ祈らなくなるのか
「祈れないほど忙しい?」 (Too Busy Not To Pray)  ビル・ハイベルズ 

最初の方しかまだ読んでいませんが、印象に残ったところを書いておきます。

祈りは不自然な行為である

私たちは生まれたときから、自分のことを自分でできるようになるため、努力し、もがきながら、独立独歩の規範を学び続けています。祈りは、このような根の深い価値観に逆らうもの、人間の自律性への攻撃、自立した生活に対する非難なのです。自分の力で自立しようと覚悟を決め、駆け足の人生を送っている人々にとって、祈りは厄介な妨げにすぎません。
…しかしそれにもかかわらず、おそらく私たちの誰もが、いつかどこかで、ひざまずき、頭を垂れ、自分の意識を神様に向けて祈る瞬間を迎えます。…

p9


「自分の力でなんとかなるさ」と言っている限り、神様が力をあなたに注ぐことは難しい、ということだからです。
…祈らない人たちは、神様の勝利の力から自分自身を遮断しているのであり、その結果、打ちのめされ、圧倒され、打ち負かされ
…驚くほど多くの人が、進んでこのような生活に甘んじているのです。そのような人たちの一人になってはいけません。誰もそんなふうに生きる必要はないのです。祈りが神様の勝利の力をあなたの生活の中へ解き放つ鍵なのですから。

 モーセは、ひとたび祈りと神様の力の関係に気づくと、神様が戦いに介入してくださるよう祈ることで、その日の残された時間を費やそうと心に決めました。腕はやはり疲れてきます。しかしモーセは、再び腕を下ろしてしまうほど愚かではありませんでした。

…あなたは祈ることに疲れていますか?あなたは自分の祈りには効果がない、と感じていますか?あるいは、神様は本当に耳を傾けてくださっているのだろうか、と疑問に思っていますか?私は本書の中で、モーセを支えた友人の役割を果たしたいと思っています。あなたが一日中腕を上げていられるように助け、勝利があなたのものになるためです。また、あなたに霊的息吹を与え、祈り続けていけるための助けを与えたいと思います。たとえあなたが、いまどれほど失望していようとも…。

p18


ほとんどの人は、自分の最も切実な必要についてそれほど頻繁に祈っていない、と認めざるを得ないでしょう。私たちは気弱になってしまうのです。祈り始めはするものの、すぐに思いがぼんやりし、中身のない言葉を用いているのに気づきます。私たちの言葉は虚しく、浅はかに響き、自分が偽善者であるかのような気がしてきます。そしてまもなく、祈りをやめてしまうのです。効果のない祈りをつづけるくらいなら、ほとんどいかなる困難な状況もかかえて生きるほうがましだ、と思えてくるのです。
 私たちは、神様が愛情深い両手を広げておられることを知っているので、神様に近づこうとします。しかし、その後しばしばたじろいでしまい、自力で自分の問題に対処しようとするのは、どこか根っこのところで、おそらく無意識のうちに、神様は私が直面している問題に影響を及ぼすことが本当におできになるのだろうか、と疑っているからなのです。

p40



…頭の中では、神様の全能をいつも信じてきました。神様の全能について書きもすれば、説教もします。しかしその信仰は、あまりにもしばしば、それが真価を発揮する場所、すなわち心に、刻みつけられていなかったのです。心が納得しなければ、自分の困難な状況について祈ったり、差し迫った必要を満たしてください、と神様にお願いしたりしません。私は心のどこか深いところで、神様はこういったことに対処することがおできにならない、と思っていたのです。
…私は自分の祈りの生活における問題が何であるかにきづきました。私は心の中で、神様には私を取り巻くゴタゴタを処理することがおできにならない、と思っていたのです。この事実を神様に白状することは、非常に気恥ずかしかったのですが、それは心を清めました。

p42


 
| | 10:25 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
罪、救いについてはっきりと話す
今日は教会の婦人の地区集会でした。
イエス様を信じる前、たましいの叫びのようなものはありましたか?
という質問に対する、ある方の答え。

「それが何かはわからなかったけど、何か助けを求めていた。夫婦関係、子育てなどの悩みの中で。それで、キリスト教会に行けばやさしい人がいるんじゃないかという気がして行った。そこでは、年が上の人ばかりで、あんまりだった。話が、この教会のように、罪のことなどはっきり言わなくて、遠いまわりの話ばかりで、よくわからなかった。だからなぜ救い主が必要なのか、よくわからなかった。…」

今は、この教会で、私たちはみな罪人で救いが必要であり、罪のない神の子救い主キリストが十字架にかかって身代わりに罰を受けてくださり、復活され、私たちを救ってくださったということがはっきりとわかられ、確固とした信仰を持っておられる方です。

色々考えさせられるお話でした。
教会で、やさしい人が迎えてくれる。これは基本的なことかもしれませんが、大事なことだと改めて教えられたこと。
罪とその罰について、キリストの十字架による救いについて、はっきりと語ることが大事であること。色々気にしたり、気をつかいすぎたりして、まわりくどいはなしや、神は愛だ、恵みだ、と耳ざわりの良い話ばかり話しても、本当に求めている人にとっては、かえって「なんだかよくわからない話」にすぎないことになってしまうこと。

多くの人は聞かないかもしれませんが、本当に求めている人にとってよくわかる話ができる者であれるように、はっきりと話せるように、と願いました。

※使徒の働き16:9〜10
ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
| 聖書 | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
信じる=任せる
最近、みことばをただ単純に信じることが大事だなと思いました。
みことばを信じる、ということが、「信じ込もうと必死になる」になってしまっているときが結構あります。
ふと、これは信じていることになっていないなと思いました。
信じることは、必死になることじゃなくて、らくになることだよな〜と思うのです。(言い換えれば「平安」)
みことばをただ単純に信じる。みことばを「そうなんだ」とすんなり受け入れて、神様に任せて、それ以上心配したり不安になったり疑ったりしない、それが大事だなと思いました。

たとえば、「あすのための心配は無用です。」マタイ6:34

信じ込もうとがんばる場合→そうだ、心配はいらない、心配はいらない、と必死で自分に言い聞かせ、念じる。でもやっぱり不安。不安だけど信じ込もうとがんばって、自分の力でがんばって、疲れて、それでもなお不安は残っている。

単純に信じる場合→心配はいらないと神様がおっしゃっているんだから、そうなんだ。心配せんとこ。神様を信頼して、神様に任せよう、とお任せしてらくになる。

信じるというのは、自分の強い精神力、というよりも、神様のご性質に信頼して任せる、ということなのかなあと思いました。
神様のみことばを単純に信じて、任せて、らくになるような信仰を持っていきたいです。
 
| 日常 | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
2015年の抱負 祈る
年末から、もっと何よりも主に頼って祈らなければ何も良いことができない、と教えられていました。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
…わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:5


年が明けてから、モーセ(イスラエル)とアマレクの戦いから、とりなしの祈りの威力を教えられました。

モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
出エジプト記17:11


実際に戦っているのはヨシュアをはじめとした戦士たちですが、結局のところはモーセの祈りの手に勝敗がかかっていたということです。

とりなしの祈りは本当に威力が大きいということを改めて教えられ感謝でした。いろいろなところで、色々な方々にある霊的な戦いに、祈って応援したいと思っています。

 
| 日常 | 08:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ドイツ旅行記 
最後に披露パーティと日曜礼拝のことを書こうと思いつつ、あれからはや4ヶ月経ってしまい、記憶が薄れつつあります…。


“簣パーティ

披露パーティは、結婚式会場の教会から徒歩数分のレストランで、兄の集っているハンブルク日本語教会と、つながりのあるハノーファーの集いのみなさん合同で、準備してくださったようでした。ミュージカルやピアノやバイオリン…と音楽でいっぱいの、どこかヨーロピアンな、おしゃれでフランクな会でした。女性が生き生きとパワフルだったのが印象的でした。

兄とお相手のMさんの生い立ちと思い出ムービーがありました。
兄がドイツに行ってから10何年か経つと思いますが、その間、教会の皆さんとの家庭的なあたたかい交わりがあって、皆さんに支えられてやってきたのだなあ、とよくわかりました。

そして、お相手のMさんのご家族、T家の出し物がありました。
T家は牧師家族で、Mさんを入れて5人兄弟の大家族です。昔から家族のお誕生日会や、最近では家族の結婚式でも、家族全員で出し物をするのが恒例だそうです。アナ雪の曲に合わせて家族全員で踊り、最後のフレーズ「すこ〜しもさむくないわ♪」のあとで「Hさんがあっためてくれるから、いいな!」というオチでした(笑)。
あとでご兄弟が、「今回は一番悩んだんですよ〜。場所はドイツだし、他の出し物がピアノとかヴァイオリンとかだし、こんなことやっていいのかなあって…」とおっしゃっていましたが、思い切った感じが圧巻でした主人は「すばらしい!」と思わずスタンディングオベーションしていました。うちの兄もこれからT家の出し物のメンバーにはいるのか〜と思うとなんだか笑えました。「最前線で使われますよ!」と先輩お婿さんがおっしゃっていました(笑)。本当に楽しいご家族でした。


◆.魯鵐屮襯日本語教会 日曜礼拝

ドイツの大きな教会の一室を借りて、行なわれていました。
導いておられるのはI先生という女性の宣教師の方で、奈良の教会から派遣されています。
子どもを入れて10何人かの集まりでしょうか。はじめに子どもコーナーがあり、子ども向けの賛美とお話をみんなでしたあと、子どもはナースリー部屋に移り、大人の礼拝が始まります。
 子どもの賛美でも大人のお話でも、一生懸命されている先生のお働きに励まされました。子どもから大人までみんな仲良しで恵まれました。先生も音楽を勉強されていたそうですが、ドイツでの働きの必要性を知って、献身されたのでしょうか。このようなお働きに感謝します。メッセージで印象に残っているのは、「人に与える」というのは「自分を犠牲にする」というよりも、「自分がイエス様にあって恵まれているように、人にも恵まれてほしい」ということではないか、ということです。(確かそんな内容だったと思います、ちょっと違っていたらスミマセン)。そうだなあ、ほんとだなあ〜と思いました。

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さいごに

 このたび家族でドイツに行く恵みをいただき感謝します。
私は初海外でしたので、外に出てはじめてわかる日本の良さがあり、また日本に帰って来てほっとして、改めて日本は私のふるさとなのだなあと思いました。

 しかし信仰面では、ドイツ、あるいは欧米は、キリスト教が文化として広く深く根付いていて、クリスチャンとしては日本よりも自由な空気を吸える感じがあり、いいなあ〜と思わされました。
 日本ではクリスチャンはたいてい自分のいるところでは、学校でも職場でも近隣でも、クリスチャンは自分だけ、という人が多いでしょう。肩身の狭い思いをしたり、“みんな同じ”が好きで宗教アレルギー気味な日本人の中でひとりだけおかしな人に思われたり、間違ったことをしている人のような錯覚に陥ったり、恥ずかしいと思ったり、日本のクリスチャンは子どもの頃からつらい思いをしていると思います。(世界から見ると、何も宗教をしていない人のほうがおかしな人と思われるんですけどね…。)そしてその中でがんばって戦うことが面倒になって、戦うことをやめて世の中の流れに合わせていく人は多いと思います。
 
 でもたまにこのようなクリスチャンであることがおかしくない国(?)、クリスチャンであることが普通にメジャーな国に行くと、クリスチャンとしての自分のアイデンティティーが強くなり、誇れるものになるような気がしました。おかしくないんだ、これでいいんだ、と安心できるというのかな。(頭ではわかっていても、実感としてね)。たまに海外に行ってそういう経験をするのも大事かな、と思いました。
 
日本にいるときには教会に行ったことがなくても、欧米に留学しているときに教会に行くようになり、キリストを信じて帰ってくる人が多いように感じます。(でも日本に帰ってくると教会に続けていけないという話も聞きます…)日本ではキリストを信じることが難しい風土、空気感があることをものすごく感じます。いったい何なんでしょうかね…。日本のクリスチャンの皆さん、共にがんばろう!祝福あれ!

でも欧米ではまったく自由かというと、そうではないんだということも改めて思いました。ルターは当時のカトリック教会の中で、キリストを信じる信仰のみによって罪が赦され救われる、という聖書にもとづいた正しい福音を主張したためにカトリックを破門になり、生活の安定を奪われ、命をねらわれて逃げなければいけませんでした。クリスチャンが多い国であっても、やはりキリストに敵対する勢力というものは常に働いており、戦いはあるのだと思います。

世界のクリスチャンの皆さんにも祝福あれ!
Be strong in the Lord!









 
| 日常 | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ドイツ旅行記◆〃觝Ъ
今回は、旅のメインである結婚式の話を書きます。

★リハーサル〜教会の人々〜
 
結婚式会場は、ハンブルク日本語教会が以前使わせて頂いていたという教会です。ドイツ郊外の小さな教会、という感じです(日本だと大きいほうになると思いますが)。リハーサルや親族挨拶のため早めに着くと、教会の目の前にあるすてきなおうちからドイツ人のすてきなお嬢さんが鍵を開けに来てくれました。牧師先生ご家族かな?この方は日本語が話せました。日本に宣教師として滞在していたことがあった…だったかな?(うろ覚え…。)空き時間にigりんと庭でじゃんけんリレーみたいなことをして遊んでいましたが、庭には大きなリンゴの木が一本あり、小ぶりな青いリンゴがたわわに実っていました。そしてその木の下の砂場には、熟れて落っこちたりんごちゃんたちが、あちこちに転がっていました。

 親族挨拶をすませ(このご親族の皆様につきましては後ほど!)、リハーサル。私はピアノ奏楽です。でもこのドイツ日本語教会界の日本人クリスチャンの皆様は音楽専門の方が多いことをそれとなく知っていましたので、私でいいのかなと恐縮しつつ、まあ花婿の妹ということで勘弁してもらえるのかな、と開き直ることに。入退場はフルートの演奏で、私はその伴奏です。このフルートの方はやはり専門に学ばれている方で、というよりプロなのかな? ○○フィルハーモニーと共演されたことがあるとか。フルートの音色が会堂にすばらしく響いていました。
 
その後ハンブルク日本語教会の皆さんとハノーファーの集まりの皆さん合同の、歌の練習を始められまして、人数が10数名とこじんまりした人数なのですが、ビックリするくらいの声量と、ものっっっすごい美声でした!!!合唱コンクールを思い出しました(わたし中学時代合唱部だったもので)。教会を牧会されているI先生(奈良の教会から北ドイツ邦人伝道の宣教師として遣わされている、日本人女性です)も音楽を学ばれていたそうで、表情豊かに賛美しておられました。また有名な賛美歌手であられるK.A子さんも、メンバーの一人として普通に歌っておられました。やはりK.A子さん、高音で伸ばすところなどが圧倒的な歌唱力でいらっしゃいました。

★結婚式〜兄とMさん〜
 
兄とMさんが二人で前に並んでいる後ろ姿を見ながら、ここに至るまでの私の知っている兄の足跡を私なりに思い出していました。

 不器用ながら、一生懸命生きて来た兄(←勝手ながら私のイメージ)。
今、神様がすばらしいごほうびを兄にくださったんだなあ〜、と思い、感動しました。

 式の中で先生が語られたエピソードですが、お相手のMさんが、「Nさん(兄)は、本当に神様に愛されているんですね〜。」と何気なく言ったそのひとことで、兄はわかるようでわかっていなかった神様の愛が、スッと心に入ってきて、この人と一緒にいたら神様の愛がもっとよくわかるようになる、そういう存在だなあ、と思い、それが決め手になったということです。(合ってるかな?)それを聞いて、私も、神様が兄に必要な良い方を与えてくださったんだなあ〜、良かったなあ〜、と心から思いました。
 
 兄は私のイメージでは「のび太くん」みたいな人で(不器用だけど本当にいい人、っていう…kyu)、はじめてMさんにお会いしたときは、「しずかちゃん」みたいな人だなと思いました。美人で、上品で、賢くて、やさしい…なんでこんなにステキすぎる人が兄と!?という…。でもうまくいったらいいなあ〜と思っていましたが、このように無事結婚に至ることができ、本当によかったです。

 聞けば聞くほど、Mさんは兄の良いところを本当に好きでいてくれているみたいで、そういう人がいてよかったなあ〜と思いました。お料理がほんとうに上手だそうで(弟妹さんたちが言っておられました、ちなみにMさんは5人きょうだいの一番上です)、裁縫が趣味、だそうです。式でもらったプログラムカードのプロフィールに、「体も心も元気でいられるような美味しいごはんを毎日作りたいです」とありました。今どきこんなにすばらしい若い日本女性がいるのですね…き驚!今まで兄は異国のドイツの地で一人でがんばってきましたから、神様がすばらしい助け手を与えてくださったのだと思いました。これからのドイツ生活は、まちがいなくバラ色ですねばら

 私も初心に返って、夫にとって良い助け手になれるように、心を入れ替えないと、と思いました!結婚式って、参列するといつもそんな思いにさせられますが、今回はまた特に考えさせられました。アハハ!
 とにかく兄に、心からの「おめでとう」を言いたいと思います。
 

長くなったので今回はこれで終わります。次に「結婚披露パーティ〜教会の人々と、Mさんご家族〜」を書く予定です。ああでも気がつけば1ヶ月経ってしまいましたね。記憶が遠のきかけていますが…笑。
| 日常 | 11:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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