なぜ祈らなくなるのか
「祈れないほど忙しい?」 (Too Busy Not To Pray)  ビル・ハイベルズ 

最初の方しかまだ読んでいませんが、印象に残ったところを書いておきます。

祈りは不自然な行為である

私たちは生まれたときから、自分のことを自分でできるようになるため、努力し、もがきながら、独立独歩の規範を学び続けています。祈りは、このような根の深い価値観に逆らうもの、人間の自律性への攻撃、自立した生活に対する非難なのです。自分の力で自立しようと覚悟を決め、駆け足の人生を送っている人々にとって、祈りは厄介な妨げにすぎません。
…しかしそれにもかかわらず、おそらく私たちの誰もが、いつかどこかで、ひざまずき、頭を垂れ、自分の意識を神様に向けて祈る瞬間を迎えます。…

p9


「自分の力でなんとかなるさ」と言っている限り、神様が力をあなたに注ぐことは難しい、ということだからです。
…祈らない人たちは、神様の勝利の力から自分自身を遮断しているのであり、その結果、打ちのめされ、圧倒され、打ち負かされ
…驚くほど多くの人が、進んでこのような生活に甘んじているのです。そのような人たちの一人になってはいけません。誰もそんなふうに生きる必要はないのです。祈りが神様の勝利の力をあなたの生活の中へ解き放つ鍵なのですから。

 モーセは、ひとたび祈りと神様の力の関係に気づくと、神様が戦いに介入してくださるよう祈ることで、その日の残された時間を費やそうと心に決めました。腕はやはり疲れてきます。しかしモーセは、再び腕を下ろしてしまうほど愚かではありませんでした。

…あなたは祈ることに疲れていますか?あなたは自分の祈りには効果がない、と感じていますか?あるいは、神様は本当に耳を傾けてくださっているのだろうか、と疑問に思っていますか?私は本書の中で、モーセを支えた友人の役割を果たしたいと思っています。あなたが一日中腕を上げていられるように助け、勝利があなたのものになるためです。また、あなたに霊的息吹を与え、祈り続けていけるための助けを与えたいと思います。たとえあなたが、いまどれほど失望していようとも…。

p18


ほとんどの人は、自分の最も切実な必要についてそれほど頻繁に祈っていない、と認めざるを得ないでしょう。私たちは気弱になってしまうのです。祈り始めはするものの、すぐに思いがぼんやりし、中身のない言葉を用いているのに気づきます。私たちの言葉は虚しく、浅はかに響き、自分が偽善者であるかのような気がしてきます。そしてまもなく、祈りをやめてしまうのです。効果のない祈りをつづけるくらいなら、ほとんどいかなる困難な状況もかかえて生きるほうがましだ、と思えてくるのです。
 私たちは、神様が愛情深い両手を広げておられることを知っているので、神様に近づこうとします。しかし、その後しばしばたじろいでしまい、自力で自分の問題に対処しようとするのは、どこか根っこのところで、おそらく無意識のうちに、神様は私が直面している問題に影響を及ぼすことが本当におできになるのだろうか、と疑っているからなのです。

p40



…頭の中では、神様の全能をいつも信じてきました。神様の全能について書きもすれば、説教もします。しかしその信仰は、あまりにもしばしば、それが真価を発揮する場所、すなわち心に、刻みつけられていなかったのです。心が納得しなければ、自分の困難な状況について祈ったり、差し迫った必要を満たしてください、と神様にお願いしたりしません。私は心のどこか深いところで、神様はこういったことに対処することがおできにならない、と思っていたのです。
…私は自分の祈りの生活における問題が何であるかにきづきました。私は心の中で、神様には私を取り巻くゴタゴタを処理することがおできにならない、と思っていたのです。この事実を神様に白状することは、非常に気恥ずかしかったのですが、それは心を清めました。

p42


 
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