「肉」に「ノー」と言う
ある日、何か良い本を読んでみたいという思いがわいてきたので、家にあった「聖霊に導かれて進もう」ー井戸垣彰著ーを読みました。
なぜその本かというと、ラベルに「待望の良書復刊」と書いてあったので、きっと良い本のはずだ!と思ったからです(←単純)。

ひとことで言えば、とてもおもしろい(興味深い)本で、あっというまに読めました。

読み終わって心に残ったのは、結局のところ問題は、周囲との戦いではなく、自分との戦いなんだ、ということです。そう思ったら、なぜだかかえって気が楽になりました。心の向かうべきところに心が向いたということでしょうか。

どんなに大きな問題があったとしても、大事なのは、そこで自分がどうするか、ということです。

聖書で言う「肉」(生まれつき人間が持っている罪の思い)の問題がテーマで、一見難しそうに見えますが、クリスチャン諸先輩方の失敗談、経験談が正直に書かれていて、自分の生活と照らし合わせながら、「肉」の問題を身近な自分の問題として読むことができます。
以下いくつか抜粋。

「肉」の支配から解放していただいた。しかし「肉」は残っている。そしてこの残っている「肉」が、キリスト者生活の諸問題の根本である。では、私たちにとって大事なことは何か。
「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(第1ペテロ2:12)
この残っている「肉」のありのままの姿を直視すること、そしてそれに対し、聖霊によって「ノー」と言うことではないだろうか。


私たちを幼子から成人へと成長させてくださるのは、内に住んでおられる聖霊である。しかし、ただ時間さえ経過すれば、自動的に成長するというのではない(ヘブル5:12)私たち自身が、「肉」の声と、また聖霊のみ声の中にあって、自分で、聖霊のみ声に従う道を選び取っていくこと、逆に言えば、「肉」に「ノー」と言うことによって、聖霊は働いてくださるのである。


「肉」を見分け、「ノー」と言い、進んで聖霊のみ声に聞き従っていくことができる。そしてそのようにするとき、私たちは、キリストに似た者へと変えられていく。



「肉」に「ノー」と言う。
聖霊に従う道を「選ぶ」。
「肉」に従う責任は負っていない。

このようなことが印象に残りました。覚えておきたいと思います。
上記の抜粋はちょっと難しい感じになってしまいましたが、色々な経験談が、ほんとに誰にでもわかりやすくていいんですよ。
また読みたいと思う本でした。



 
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八木重吉ワールド*
 子どもの国語の教科書に八木重吉の詩が載っています。先日娘が、教科書を声に出して読む「音読」という宿題をしていました。


「光」

ひかりとあそびたい
わらったり
哭(な)いたり
つきとばしあったりしてあそびたい


NHKの子ども番組でも、八木重吉の詩を歌にしたものが歌われています。


「心よ」

こころよ
では いっておいで

しかし
また もどっておいでね

やっぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行っておいで



私が、「八木重吉って、クリスチャンだよ。名前だけじゃない、本っ当のクリスチャンだよ!」というと、娘は「へえ〜そうなん?」と興味ありげだったので、八木重吉の信仰の生涯を書いた本をひっぱり出してきて、見せました。
それに対する娘の感想

「キリストとかばっかり。」

…おしまい。ガクッ

娘が早々に放り出した本を久しぶりにパラパラとめくっていると、私がハマってしまいました。
むか〜しの人なのに(1898~1927)、時代の隔たりをまったく感じさせない、すなおな詩です。心が洗われるような、というのはこのことかなという感じがします。たとえば…


草にすわる

わたしの まちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる


自然の中にいると、素直になりますよね。
また、私が、最近なぜか思い出してしまう、心に残っている詩はこれです。


幸福なひとはだれか
おそらくは
ひとむかしたっておとずれる故郷(ふるさと)への田舎道を
ほがらかにあゆむ しずかなこころを
常住にたもちうる そのひとであろうか
あるいはまた
春がきてもえいずる草のこころの
そのしずけさをおどろきかんじて
「名」をゆめみだにせぬ そのひとだろうか?


私はわりと「緊張しい」なので、確かにいつもこういう心持ちですごせているなら幸せだなあと思いつつ、思い出してしまいます。特に前半が好きです。

信仰の詩もいい詩がたくさんあります。


このよに
てんごくのきたる
その日まで わがかなしみのうたはきえず、
てんごくのまぼろしをかんずる
その日あるかぎり
わがよろこびの頌歌(うた)はきえず


私はこれが好きです。↑

  ***

きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい

  ***

「基督(きりすと)」

基督が眼のまえへ現れたら
すぐに私はくっついてゆきます

  ***
  
「ゆるし」

神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい

  ***

むつかしい路もありましょう
しかしここに確かな私にも出来る路がある
救ってくださると信じ
私をなげだします


結核を患い、奥さんと二人の幼い子どもを残して29才で天に召されました。死を覚悟した時に、「子どもたちを立派なクリスチャンにしてほしい。」と奥さんに語ったそうです。詩集の原稿料が入った時に、2円の原稿料で、さっそく20銭の聖書を10冊買って、色々な方に差し上げたそうです。奥さんは、「八木は、生きている間は伝道が一つもできなくて、それがとってもイエスさまに申し訳ないと思っていたんですよね。だから、八木の詩が今、イエスさまを伝えるお手伝いをしていると思うと、ほんとうにうれしゅうございますね。」と語っておられます。最後に奥さんが一番好きだという詩を紹介して終わります。(奥さんは1999年に94才で天に召されました。)


素朴な琴

この明るさのなかへひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしずかに鳴りいだすだろう


参考本:「八木重吉に出会う本」フォレストブックス





| いいことば | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
私ではなくキリスト
以下はある冊子からの抜粋で、ある本の紹介文です。その本は、あるベテラン牧師の方が、亡くなった友人の息子が牧師となったときに、その愛する若い牧師に向けて書かれたもの…のようです。『成功論』ではなく、正直なところを分かち合い、愛する若い牧師を励ます愛を感じます。


●ピーターソンは、牧師としての自分の人生を"messy"という言葉で表現している。「どろどろ」とも「ごたごた」とも訳せる言葉だ。百戦錬磨の牧師ピーターソンでさえ、いまだに自分が何をしているのか、何をすべきか、言うべきか分からないことがあるらしい。

●「どうしていいか分からない」というところが、神を信頼し、イエスに従うということにつながるからだ。

●「どうしたらいいかが分かってしまうこと」に気をつけなければならない。教会を大きくする、心の病のセラピーにかかわる、学問を追究する、さまざまなプロジェクトを立ち上げるなど、分かりやすい結果を出すことができるものが曖昧な牧師という職からの「逃げ道」になってしまう可能性をはらんでいるということだ。

●半世紀にわたる牧師生活をふりかえって、何かを成し遂げたという思いがない、と書いている。「何かを成し遂げる」ことができる人がこの世のリーダー像だ。

●不安を働くことによって解消しようとした。失敗することを恐れて働き、やることがないときでさえ働いた。

●自分が置かれた時と場所を引き受けるのが牧師であり、それが自分の能力を生かすことのできない場であればこそ、何かを成し遂げようとする思いを砕かれることを学んでいく。


神様は、働き人の、何かを成し遂げようとする思いを砕かれること。
どうしていいか分からないがゆえに、主に祈り、主に頼り、主のみわざが成っていくこと。

自分の思いが成ることではなく、キリストのみこころが成っていくこと。主の働きをするというのは、そういうものなのだ、と改めて励まされました。「私ではなくキリスト」…以前教会テーマとしてかかげられていたキャッチフレーズが、思い出されました。

「私ではなくキリスト」…そこに立つと、様々なややこしい感情から解放されて、平安が与えられ、行くべき道が分かるような気がします。


| いいことば | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
不完全な教会を通して 
 最近このことが教えられていて、載せたいと思いつつ、引用が長くなるのでどうしたものかと思いつつ1ヶ月ぶりの更新となってしまいました。もう長いまま載せてしまおう

「神は自分なら完璧に、そして瞬く間になし得ることを、ゆっくりと不器用に行うようにと私たちに命令なさる。」この原理の例として、イエス・キリストの教会ほどふさわしいものはない。


教会は伝道に失敗し、重大な誤りをおかす。それは、教会が、罪を犯して神の栄光を受けられなくなった人たちで構成されているからである。それが神の負われたリスクである。完璧さを求めて教会の門をくぐる人は、リスクの本質や人間の本質を理解していない。ロマンティックな人が注意しなければならないのは、結婚は始まりであって終わりではないということだ。愛を持続させるためには苦闘が伴うことを学ばなければならない。それと同じように、クリスチャンはだれでも、教会もまた始まりにすぎないということを学ばなければならないのだ。


私は似たような例を、アール・パーマーから聞いた。…略…「ミルピタス・ハイスクールのオーケストラがベートーベンの第9交響曲に挑戦するとき、その結果たるやひどいものです。」とパーマーは言った。「その演奏のすごさは、耳の聞こえないルードヴィッヒ(ベートーベン)が、墓の中でひっくり返ったとしても、驚きはしないでしょう。あなたは『なぜわざわざ第9なんですか』と尋ねるかもしれません。なぜわざわざ、ベートーベンの不朽の名曲を演奏しようなどという過酷な重荷を、この子たちに負わせるのですか。あの有名なシカゴ交響楽団ですら完璧に演奏することはできないのに、と。」

「私の答えはこうです。聴衆の中には、ベートーベンの第9交響曲と出会う唯一の機会がこのミルピタス・ハイスクールのオーケストラであるという人もいるでしょう。完璧には程遠いのですが、それでもそれは、その人にとって、ベートーベンのメッセージを聞く唯一の方法なのです。」

教会の礼拝で物事が順調にいかずに悩むことがあるときには、私はいつもアール・パーマーのたとえを思い出す。私たちは決して作曲家の意図どおりに演奏することができないかもしれない。だが、その音を地上で人々に聞かせる方法はほかにないのだ。

教会〜なぜそれほどまでに大切なのか〜  フィリップ・ヤンシー著


私たちは教会に(または自分に)完璧な理想を求めて、現実にがっかりしたり、さばいたり、つまずいたり、離れたり、します。しかし神はといえば、不完全であるのはもともと承知の上で、「教会を通して」御自身の栄光を表していく、というプランを定められたわけです。神様のなさることは本当に奥深くて、忍耐とあわれみがありすぎて、人間の理解や常識を超えてしまっていることに圧倒されます。そして、人間の罪深さ、愚かさ、不完全さをはるかに超えることができる、神の偉大な偉大な力があるのだろうと思います。

完璧には程遠くても、私を通して、また私たちの教会を通して触れる福音が、その人にとって福音に触れる唯一の機会かもしれない。だからがっかりしないで、やめてしまわないで、不完全でも神の愛を伝え、キリストによる救いを伝え、みことばを伝え続けることが大事。というか、「不完全ですが伝えてもいいんですね、それが大事なんですね?」と励ましを感じました。不完全でも、私の存在は、そして教会の存在は、その働きは、とても重要なのだ。そう教えられて、励まされるので、最近よくこの話を思い出します。
| いいことば | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
家事について、いつも励まされることば
 もっとも疲れているときは、自分を強制的に動かす何かに取り組む必要があるということです。物理の教師である私の義理の息子が、私に慣性の法則を教えてくれました。すなわち、休止している物体は休止を続ける傾向があり、動いている物体は動き続ける傾向があるということです。…

もうこれ以上動けないと感じる時に、意識的にやることができるものを挙げてみて下さい。私の場合は、たいていテレビのニュースを見ながら、お皿を洗ったり、カウンターを拭いたりすることです。時には、ニンジンやじゃがいもの皮をむいたり、お米を研いだりします。私は意識的に、あまり頭を使わないでいい仕事をするのです。そのような小さな努力が、もう一度自分に驚くほどの元気を与えてくれて、また何かをしようという気を起こしてくれます。

これほんとです!経験済み。

「家事なんて、どうでもいいわ。」
…これは、無知、忙しさ、または肉体的な疲労という問題ではありません。得手、不得手ということでもありません。「どうでもいいわ」という態度は、私たちの罪の問題に直面しています。それは反抗的なこころです。…

テトスへの手紙2章5節は、私たちに「家事に励むように」と教えた後で、「それは、神のことばがそしられるようなことのないためです」と言っています。言い換えるなら、私たちが神の言葉に従うのは、私たちの行動が神の言葉とイエス・キリストの福音に対して、不名誉、傷、中傷、不信、悪評、そして害をもたらさないためなのです。

「神のこころにかなう妻」エリザベス・ジョージ  第6章 家の管理 より


家事の得意でない私の最も大きい原動力はこれです。「主の御名が汚されてはならない!」といっても我が家の状態は、主の栄光が輝くほどの水準には到底達してはいませんが、主の御名が汚されてはならないという一心で、なんとかがんばっています 
| いいことば | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
神ヲ愛スルノ心ヨリ 
教会に二種ノ人民アリ。
一ハ、宗教家ニテ、正義ヲ行ハント欲シ、神ヲ愛セント務メル者也。
一ハ、真正ノ信者ニテ、神ヲ愛スルノ心ヨリ、義務ヲ尽スニ熱心ナル者ナリ

堀俊造

先日ユースキャンプの用で同志社に行った主人が持ち帰って来た「同志社時報」という冊子を、捨てる前にパラッとみておこう…と思ったら出会ったことばです。

堀さんは、同志社をはじめた新島襄と同時代を生きたクリスチャンドクターだそうです。1847〜1926…江戸時代末期から明治時代、大正時代を生きた方ですね!信仰に篤い方だったようで、聖書に親しみ、年老いて体が衰えても日曜礼拝を怠らず、教会の行き帰りに倒れたことも数回あったが、礼拝をやめなかった、のだそうです。自宅を開放して伝道集会を行い、それがもとになって教会が始まったそうです。

さて、上のことばですが、今ちょうど教会の水曜集会は「ローマ人への手紙」シリーズで、律法主義や罪からの解放などを学んでいるので、それを思い出しました。

きまりを守ることによって、神に喜ばれようとする。一見悪くないんですけど、なんでしょう。もう赦されて、愛されているのを知らずに、なんとか自分でがんばって努力によって正しい者になって神の愛を得ようとしている、というのでしょうか。

宗教家と真正の信者。この分け方もなるほどと思いました。

先日地区集会で、私たちのことを良く知ってくださり、いのちを捨ててまで私たちを守り導いて下さる「良い羊飼いであるキリスト」について学んだ時に、ある姉が言いました。

「愛されているということがとても伝わって来た。こ〜んなに愛されているのに、ついていかないって、どうなん…?て思う。」

これが「真正ノ信者」のスピリットだな、と思いました






| いいことば | 14:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
神のささやきを聞く
 人生は一度だけですから、み声を無視し、難しい促しを避けたことを承知の上で神にお会いするよりは、理解できる限り、ご命令を果たしたうえでみ前に立つほうが断然いいと、私は思います。(第1章)
 

私には、神のご意志とささやきに対して「細部に至るまで従順」である時期と、自分のほうがもっと良い方法を知っている、と思う時期があります。それでも私は、天の父なる神のもとへ立ち返り続けようと努めているのです。神が与えて下さる洞察への強い関心と開かれた心と何も握っていない手を持って…。(第2章)

あなたや私が小さなささやきに忠実であることをみずから証明するとき、神はもっと大きなささやきを託してくださいます。(第2章)

彼らは、神のささやきを聞き取るーとともに、それに従うー確率を高めるために力を尽くしているのです。(第2章)

「神さまは大切な事ほど小さな声でささやく。」ビル・ハイベルズ

またリビングにあった主人の本をチョロチョロッと出だしのほうだけ読んで、書き留めておこうと思ったことばです。(私の読書はいつもそんな感じですね…)

最近の私の課題は、この方の言い方で言えば、日々の小さなささやきに忠実であることです。人間は罪人で、完璧にはできないのですが、いつも神のもとへ立ち返り続けようと努め、確率を高めるために力を尽くす。完璧をめざすと、一回でも失敗するとがっかりしてあきらめの気持ちになりますが、「確率を高める」と考えると、1回2回失敗しても、「これからがんばって確率を上げるぞ!」と気力がわいてきますね。

大きなささやきについては、一番上のことばですね。本当にそうだ!ということをうまく書きあらわしてあったので、書いておきました。そうありたいですが、心に痛いことばでもあります…。
   





| いいことば | 12:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
批判癖 *
ある方のブログにあった一言で,なんでもないようで、真理をよく言い得ていることばだなあと心に残っていたので,忘れないうちにメモっておこうと思いました。

 人を批判するのが癖になるとなかなか止められませんよね汗

批判されて傷ついている立場の若い女の子が書いていた言葉です。

批判するとき,人は,あたかも自分は正しい全うな者であるというふうに,批判します。しかし,実は自分の意志でやめようとしてもやめられない批判癖という中毒になってしまっている可能性があります!人を下に見て批判する時,自分が高められるような錯覚があり、快感があるからです。そして自分ではそんな悪い病にかかっているとは気がつかず,知らず知らずのうちにどっぷり浸かってしまっています…。そして多くの人を傷つけます。

おそるべし、批判癖! 気をつけたいと思います。

陰口をたたく者のことばは、
おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。

箴言26:22



| いいことば | 15:21 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
話の聞き方あいうえお*
 今日は子どもの参観日でした。3年生の教室に貼ってあった「話の聞き方あいうえお」。なかなか参考になるので、忘れないうちにメモっておきましょう!

あーあいてを見て聞く
いーいっしょうけんめい聞く
うーうなずきながら聞く
えーえがおで聞く
おーおわりまで聞く

できてるか?と自分に問えば…???
これから心がけてみたいと思います

さらに「話し方のかきくけこ」もありましたが、残念ながら覚えきれませんでした。話下手な私なので、あ〜できてないなあ〜と反省させられる内容でしたが…。またの機会に!

| いいことば | 16:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アブラハムの召命*
 孤立と移植ほど、私たちを強めるものはない。青年を移民させるか、あるいは、責任ある地位に置くかしてみよ。または、自分の力だけにたよらせてみよ。そうすれば、彼は、いつでも家の中に閉じこもっていて、ほかの人に依存し、ぜいたくに囲まれている場合には全然見られぬ力を伸ばしていくことだろう。彼の魂は、健全な要求に答えて、生来の活力を発揮していくのである。

人間の生まれながらの性質に当てはまることは、信仰の場合にはことさらに当てはまる。私たちが順調で平和そのものの環境のただ中に静かに休んでいる限り、信仰は私たちのうちにあって、発育しない腱(すじ)として眠っている。それは一本の糸であり、芽であり、単なる理想としてとどまる。しかし私たちが、これらの環境から追い出され、神以外の何ものも当てにすることができなくなると、信仰は突然太い綱となり、かしの巨木となり、生涯の一大原則となるのである。

アブラハムが、もしいつまでもウルに住んでいたとしたら、彼は決してアブラハムとなり、忠実な者の父、信仰の偉大な手本となることはできなかったであろう。彼の魂の中で、信仰がみごとな大きさに成長するためには、幸福な家庭に別れを告げ、まだ行ったことのない見知らぬ国へと旅立たなければならなかったのである。

「信仰の高嶺をめざして 〜アブラハムの生涯から〜」  F.B.マイアー

参考に

主はアブラハムに仰せられた。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。」
創世記12:1

読み始めた本で、印象的な一文だったので書き留めておきます。といっても最近本を最後まで読み切ったためしがないのですが…

| いいことば | 14:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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