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不完全な教会を通して 
 最近このことが教えられていて、載せたいと思いつつ、引用が長くなるのでどうしたものかと思いつつ1ヶ月ぶりの更新となってしまいました。もう長いまま載せてしまおう

「神は自分なら完璧に、そして瞬く間になし得ることを、ゆっくりと不器用に行うようにと私たちに命令なさる。」この原理の例として、イエス・キリストの教会ほどふさわしいものはない。


教会は伝道に失敗し、重大な誤りをおかす。それは、教会が、罪を犯して神の栄光を受けられなくなった人たちで構成されているからである。それが神の負われたリスクである。完璧さを求めて教会の門をくぐる人は、リスクの本質や人間の本質を理解していない。ロマンティックな人が注意しなければならないのは、結婚は始まりであって終わりではないということだ。愛を持続させるためには苦闘が伴うことを学ばなければならない。それと同じように、クリスチャンはだれでも、教会もまた始まりにすぎないということを学ばなければならないのだ。


私は似たような例を、アール・パーマーから聞いた。…略…「ミルピタス・ハイスクールのオーケストラがベートーベンの第9交響曲に挑戦するとき、その結果たるやひどいものです。」とパーマーは言った。「その演奏のすごさは、耳の聞こえないルードヴィッヒ(ベートーベン)が、墓の中でひっくり返ったとしても、驚きはしないでしょう。あなたは『なぜわざわざ第9なんですか』と尋ねるかもしれません。なぜわざわざ、ベートーベンの不朽の名曲を演奏しようなどという過酷な重荷を、この子たちに負わせるのですか。あの有名なシカゴ交響楽団ですら完璧に演奏することはできないのに、と。」

「私の答えはこうです。聴衆の中には、ベートーベンの第9交響曲と出会う唯一の機会がこのミルピタス・ハイスクールのオーケストラであるという人もいるでしょう。完璧には程遠いのですが、それでもそれは、その人にとって、ベートーベンのメッセージを聞く唯一の方法なのです。」

教会の礼拝で物事が順調にいかずに悩むことがあるときには、私はいつもアール・パーマーのたとえを思い出す。私たちは決して作曲家の意図どおりに演奏することができないかもしれない。だが、その音を地上で人々に聞かせる方法はほかにないのだ。

教会〜なぜそれほどまでに大切なのか〜  フィリップ・ヤンシー著


私たちは教会に(または自分に)完璧な理想を求めて、現実にがっかりしたり、さばいたり、つまずいたり、離れたり、します。しかし神はといえば、不完全であるのはもともと承知の上で、「教会を通して」御自身の栄光を表していく、というプランを定められたわけです。神様のなさることは本当に奥深くて、忍耐とあわれみがありすぎて、人間の理解や常識を超えてしまっていることに圧倒されます。そして、人間の罪深さ、愚かさ、不完全さをはるかに超えることができる、神の偉大な偉大な力があるのだろうと思います。

完璧には程遠くても、私を通して、また私たちの教会を通して触れる福音が、その人にとって福音に触れる唯一の機会かもしれない。だからがっかりしないで、やめてしまわないで、不完全でも神の愛を伝え、キリストによる救いを伝え、みことばを伝え続けることが大事。というか、「不完全ですが伝えてもいいんですね、それが大事なんですね?」と励ましを感じました。不完全でも、私の存在は、そして教会の存在は、その働きは、とても重要なのだ。そう教えられて、励まされるので、最近よくこの話を思い出します。
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