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サムソンのように、いのちを使う
そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
士師記16:30

サムソンは、決して模範的な人とは言えず、面白い話ではあるけれど、なんでこんなに聖書にページがさかれているのかなあと不思議に思う人です。でも最近、その最期から教えられています。

神から力が与えられていたサムソンは、自分の愚かさから出たことで、神の力が去り、敵に捕らえられ、両目がえぐりとられ、最期のときは偶像の宮で何千人の敵の前で笑い者になっていました。

でも最期に、「力を与えてください」と祈り、その宮をささえている柱を引いて宮を壊し、それまで生きてきた中で倒したすべての敵の数よりもたくさんの敵を、一度に倒して自分も死んだ、という話です。 

死ぬにあたって、せめて自分にできる限りのことをして死ぬ。ただでは死なないぞ。そんな意気込みを感じます。

その「死に方」、言い換えれば「与えられているいのちの使い方」、結局のところ「生き方」、になるでしょうか。そんなことを考えさせられました。

私はつらくなると、「ああ早く天国に行きたいなあ。」などと安易に逃避してしまいますが、そんなときにこのことを思い出すと、いやいや、ただで死んだらあかん!と思わされます。

同じ死ぬいのちなら、楽に何もしないでただ死んでしまうより、つらくても自分にできる限りのことをしっかりやって、与えられたいのちを意味あることに使って死にたいと思います。(「死にたい」というと消極的な響きがしますが、結局のところ、そのように「生きたい」ということですね。)

今でもよく、つらさから逃避してラク〜に生きたくなるときに、このことを思い出します。
| 日常 | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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