CALENDAR
S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
自分の立場をはっきりさせて生きる
すごく久しぶりになってしまいました。あまり間があくと、しょうもないことをかきづらくなり、何を書いていいかわからなくなってきました…

まあ細かいことは気にせず、少し前に教えられたことの一つを、久しぶりに書いておこうかと思います


先日礼拝メッセージで「ペテロの失敗」から教訓を学びました。地区集会で再度学び、私が印象に残ったのは、「立場、所属をはっきりとする」ということでした。

ノンクリスチャンだらけの状況で、クリスチャンは目に見えないプレッシャーを感じると思います(その中でクリスチャンとして生きようとすればですが。妥協して生きるならプレッシャーはないと思いますので…)。特に日本は仏教神道以外の宗教をしている人を怪しむところがありますし、欧米のような個人主義ではなく、「みんな一緒」であることを求められる空気がありますので、目に見えるわかりやすい迫害ではないかもしれませんが、目に見えないツラいプレッシャーが強くあると思います。そのような中で、クリスチャンであることを表明し、クリスチャンとして生きていくことは、とても大変なことであると思います。

しかし、「自分はキリストを信じている者である」、「キリストに属する者である」、ひいては「キリスト教会に属する者である」、そのことを自分の中ではっきりさせ、外にもその立場をはっきりとさせること、これがとても大事であると教えられました。大変なようですが、考えてみれば、ただ自分に正直である、ということなのです。シンプルに生きることです。

ところでクリスチャンにとって、キリストの救いをノンクリスチャンの方に伝えていくということは、聖書に書かれている神様からの使命です。

でも私は「話す」ことが苦手で、また、どちらかというと人に合わせようとしてしまうタイプなので、「キリストを伝える」、ということを考えると、プレッシャーで胃が縮まりそうになります。

でも上のように教えられて、ノンクリスチャンの中に出て行くとき、「自分の立場に正直に立つこと」「自分の所属をはっきりすること」、ただそれだけだ、と心に言い聞かせていました。すると、自然に教会の話になって、プレッシャーもあまり感じず、色々お話しできました。

「伝えなきゃ」と思うよりも、「自分の立場をはっきりさせて生きる」と思うほうが、私にとっては無駄なプレッシャーがなく、自然に証しができる、と思いました。人により様々であると思いますが、私にとってはこの「自分の立場をはっきりする」ということが、ノンクリスチャンの中でクリスチャンとして生きようとするときに、とても励ましとなっています。

これからも、どのような中でもゆるがされないで、自分の立場をはっきりさせて生きていけるように、力が与えられるように、願い祈ります。

ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
マタイ26:69〜

余談ですが、ドイツにいる兄が前にこんなようなことを言っていました。

日本では「私はクリスチャンです」と表明するだけで、ものすごいエネルギーを使わないといけないけど、ドイツでは「私はクリスチャンです」ということは、「私はイスラムです」「私は仏教です」みたいな自己紹介のようなもので、クリスチャンですということには何の苦労もない。日本のクリスチャンは大変だ。偉い。

みたいなことだったと思います。日本で「クリスチャンです」と公言して、クリスチャンとして生きている人は、本当にエラい!すごい!と思っていいと思いました。日本のクリスチャンに祝福あれ!

| 聖書 | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
カラスを使って養う神様
 「ここを去って
  …ケリテ川のほとりに身を隠せ。
  …わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。
  …幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。 
第1列王記17:3〜6


預言者エリヤは、いつも王様から命をねらわれ、ハラハラドキドキ、ギリギリの生活でしたが、いつも全能の神様の奇蹟の数々を見続ける生活でした。飢饉の時、神様は烏に命じてパンと肉を朝夕エリヤのところへ運びました。(ちなみにこの後ケリテ川の水が枯れると、今度は飢死寸前のやもめと子どもの家に住むように導かれ、かめの粉とつぼの油が尽きないという奇蹟によって養われます。)

神様の奇蹟を見続ける生活ってすばらしいなあと思いました。
(窮地に追い込まれるときに奇蹟があるので、奇蹟を見るには窮地に追い込まれることもセットになるのだとは思いますが。)
神様の奇蹟を見る生活を良いビジョンとして抱き、子どもたちにも神様が生きておられることを見せてあげられるような生活をしたいなあと思いました。

「神様が必要なものは与えてくださっていますよ。」と信仰によって子どもに言うことがあります。

でも私が実際に口スッパく言うのは「節約!」「それは買いません!」…言っていること自体は悪くないですが、問題は気持ちの部分なんですよね。気持ちが切羽詰まってしまっていて、神様が養って下さる、という主への信頼からくる心のゆとり、豊かさみたいなものが足りないような気が…。子供は親の本心の部分を、敏感に感じ取り、影響を受けていくものだと思いますので、反省しています

必要ならばカラスを使って養うことができる神様に信頼し、「ああだこうだとカリカリしてウルサい母」ではなく、「神様の御手による養いに信頼し、実際にそう成っていくことを見せてくれる母」でありたいと思います

追記:この記事を下書きした後で、先日ホワイト先生が水曜集会にきてくださり、ちょうどこの箇所からメッセージをしてくださいました。カラスの話とやもめの話から、「ささげることの祝福」を教えてくださいました。主のために仕え、ささげるとき、主は祝福して必要を備えてくださる。厳しい現状の中でもこの信仰をもって主のためにささげ、主からの祝福を信仰の目を持って期待する生活。すばらしいなあと教えられました。感謝します。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
第2コリント9:10













| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
内なる人を強くする
 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3:16



自分の心を強めるもの、元気になれるものを、人はみな求めて、日々すごしていると思います。それは必要なことですし、良いことだと思います。

でも、このみことばをよく味わったとき、私は、信仰をもって神様を仰ぐことをせず、目の前にあるもので手っ取り早く自分を強めようと必死になっていることを教えられました。

「あなたの内なる人を強くするのはわたしだよ。」

神様からそのように言われているような気がしました。

本当に私を強くしてくださるのは神様です。
そして天からくるその力は、無限大で永遠です。
そんな必死にならなくても大丈夫。
神様が強くしてくださると約束してくださっているんだから大丈夫。
神様にもっと信頼して、安心して生きたらいい。

そう教えられました。

「神様が私の内なる人を強くしてくださる」

少し不安になるとき、そう心の中でくりかえし、生きておられる主と主のことばに信頼し、希望と平安が与えられています。


| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「自分の敵を愛する」を考える
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
マタイ5:44

 「自分の敵」「迫害する者」
…そう言われると、それなりに大変なことはあるにせよ、そこまで敵って言うほどの人でもないしなあ〜、迫害って言うほどのことでもないしなあ〜…と、このみことばを自分に適用するのがためらわれるところがあります。

でもみことばはきっと自分に必要なものだから、このみことばを自分のこととして適用しようとすると、どういうことになるのかなあと考えていて、思いついたのですが…

「敵」「迫害する者」
のところを、
「自分にマイナスダメージを与える人」
とイメージしてみると、ああ〜このみことばが自分のこととして迫ってくるなあ〜と思いました。そう考えると、いろいろな場面で、このみことばから励まされることができます。

自分になんらかのマイナスダメージを与える人を愛する、その人のために祈る、というのは難しいですね!自然とわき上がってくる自己中心的な感情とは逆ですから。でも、そうできるように、祈りたいと思います。


そう祈っていると思い出すのが、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というイエス様の十字架上の祈りです(ルカ23:34)。ステパノが、迫害されて石で打たれて死ぬときに、同じような祈りをしたことも思い出します。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」使徒7:60

神様から力をいただいて、少しでも見習いたい、と思います。

神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
エペソ4:32

だいたいが、自分自身がまわりの人々になんらかのマイナスダメージを日々与えている存在だと思いますから…スミマセン。

  
| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分では小さい者にすぎないと思ってはいても…
「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

…あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、…主の目の前に悪を行なったのですか。」
第1サムエル 15:17、19

サウル王が、主の命令に完全に従い切らないで、自分勝手な判断で中途半端な対応をしたことに対し、預言者サムエルが大変怒っているという場面です。

自分は小さい者にすぎないからと、まわりへの影響まで考えない。私ごときがこれぐらいしたところで、大したことはない、と思う。

でも、影響というのは、自分が思っているよりも大きい。自分を卑下すればいいというものではない。自覚を持って、責任ある行動をとること。しっかり主に従って行くことが大事だ。

…そんなことを教えられました。






| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
晴ればれ 陽気に *
 「陽気な心は健康を良くし、
 陰気な心は骨を枯らす。」箴言17:22


先日教会で水曜日にしているAwanaの幼稚科クラス、「カビーズクラブ」で、ソロモンの知恵について教えました。ソロモンは神さまから特別な知恵を与えられた王様で、ソロモンの知恵を聞くために周りの国の王様がわざわざやって来たほどです。(列王記第1 3〜4章)

そのソロモンの知恵の例のひとつとして、このみことばがテキストにあったので、こどもにわかりやすく、「いつもニコニコ元気でいることは○」と教えました。(『知恵』をわかりやすくいうと、○と×がよくわかっていること、と説明した。)

私自身どちらかというと陰気かなと思うので、そして身近にいる主人は完全に陽気な人なので、「陽気な人っていいよなあ。すいませんね陰気で。」みたいなあきらめモードで、このようなみことばをスルーしてしまいがちです。

(ほかにも似たようなみことばはありますよね。「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。」「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」箴言15:13、15 特に箴言15:15は主人のテーマ聖句じゃないかとひそかに思っています…。)

でも子どもたちにソロモンのすぐれた知恵として「いつもニコニコ元気でいることは○」と教えながら、そうだなあ、ニコニコ元気でいることは○だって、あの知恵者で有名なソロモンが言っているんだから、○なことをやっていかなあかんよなあ、生まれつき陽気なタイプ、というのとは違うけど、陽気な考え方、陽気なとらえ方をしながら日々すごしていかなあかんなあ!と本当に思いました。

なにごともこまかく気にしすぎないで、ゆだねる!先のことをあれこれ心配しないで、ゆだねる!

心の内にため込んでいることを、神様に向かってパッと放す、って感じかな。重たい心を軽くして、晴ればれと、陽気に、すごしていきたいものだと思いました。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」ペテロ第1 5:7

| 聖書 | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
子どもを愛するイエスさま〜夏休み明け〜
8月は更新せずに終わってしまいました〜 

子どもが夏休みでバタバタしていたもので…。
ある方が言っていました。「バタバタっていったいなんなんだ?!」と。確かにそうですよね。ただの言い訳です。はい。 

先日ある方とお話ししていて、ブログ楽しみにしています〜と言われ、全然更新していないのが恥ずかしくなり、また、楽しみにしている方もおられるのだなあ、がんばろ〜うとも思い、すっかり重くなってしまった腰を上げて(?)久々に書き始めました。

 子ども夏休みつながりで、最近教えられたこと。 

マルコ10:13〜

  さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 …」

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。 

子どもの夏休みが明け、給食が始まった日。子どもは3時くらいまで帰って来ません。久々にひとりになれる自由にわくわくし、開放感に満たされていた私。その日の婦人集会のメッセージがこの箇所でした。 

弟子たちは、子どもたちがイエスさまを煩わせてはいけないと、子どもたちを追い返します。ここの箇所からすると、もしかしたらイエスさまたちは、働きの後、ゆっくりしていた時間だったかもしれない、と。

ゆっくりしている時に、子どもたちがワア〜〜〜〜と来る。この時の大人の気持ち、わかりますねー! 

 でも、イエス様は違いました。「子どもたちを来させなさい。」子どもたちを追い返そうとする弟子たちの心に憤られました。  

イエスさまは、自分がゆっくりしたい、ガシャガシャされたくない、そういうことよりも、子どものたましいを愛して、子どもをむしろ招いて、抱き寄せたのです。抱く…「別にきてもかまわないよ」、という許可以上の、子どもがいとおしいという心を感じました。 

そのイエスさまの心は、夏休みが終わって子どもがいなくなってスッキリした〜みたいな開放感に満たされている私とはまったく違うな…と思いました。イエスさまみたいな心で育てられた子どもはどんなに幸せでしょう。それに比べると、私の子どもには、申し訳ありません、悔い改めます、という思いでした

 この話はまだ続き、家に帰って、子どもが帰ってくる時間、私は祈りました。

「神さま、もうすぐ子どもが帰って来ます。さっき教えられたように、イエスさまみたいに子どもを心から迎えられるように助けてください。」  人間的な肉の思いだけですと、「ウワ,帰ってきちゃった〜」という反応になるのでね。 

するとどうでしょう。「ただいま〜!」とigりんが帰って来ました。そしてそのうしろにもうひとり、ランドセルを背負ったままのお友達がくっついてきました。なんでも鍵が開いてなくて、お兄ちゃんが帰ってこないと家に入れないからここにいていいか?ということです。その子は結構昭和のわんぱく坊主みたいな子なので一瞬だけ(一瞬だけですよ!)ヒエっと思いましたが、先ほど祈ったおかげでか、心でイエスさまに祈りつつ、喜んでお迎えできました。 

そのあとはWiiゲーム大会が始まり、ものすごい大絶叫で私の鼓膜はブルブル振動するくらいでしたが、イエスさまのお心にはげまされてその子のたましいを愛する心ですごせました。

その後学校で遊ぶ約束をして来たらしいお友達も数人加わり、夏休み明けて久々のお友達大集合〜の日となりました。静かにゆっくり過ごす時間は一変し、大絶叫と大歓声に包まれましたが(ゲーム内容はロンドンオリンピックでした!)、でも本当に、イエスさまの心にはげまされて、たましいを愛する心で過ごせました。久々にお友達のお顔を見れた喜びがありました。 

イエスさまの愛の心にはげまされてお友達を迎えられるように、そして、一番喜んで迎えて下さるイエスさまのところにお友達が行けるように、そう祈ります。

 この9月は、よくこのみことばを思い出して、はげまされて歩んでおります
| 聖書 | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
きっとそのことをしてくださいます 
 御霊を消してはなりません。
預言をないがしろにしてはいけません。
すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
第1テサロニケ5:19〜24


最近1ヶ月ごと更新になってしまっていますが、7月をふりかえって教えられたこと。

自分の愚かさを思うと、こんな私では全然だめだ、神さまの働きにふさわしくない、と思います。

でもみことばには、私ではなく、私を召された方は真実な方だから、きっとそのことをして下さいます、とあります。

私ではなく、私を召された神様が、ご自身の真実さのゆえに、きっとして下さる。

そのことに信頼すると、希望と平安が与えられます。だからこそ、御霊の導き(平安があるか、うしろめたさはないか、など)にちゃんと従い、預言、つまり聖書のみことばをしっかりよく学んで従うことが大切だ、と教えられます。

そしてもちろんそのような恵みはすべて、イエス・キリストの十字架による罪の赦しの上に成り立つことを覚えて、イエス様に感謝します。
| 聖書 | 16:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
あなたは実は死んでいる …!
 わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

黙示録3:1〜3

最近このみことばから教えられました。
自分の霊的現状をよく見て、悔い改めて、真に生かされたものとなれるように、祈って、教えられたことを実行していかなければと思わされました。

本当にみことばはズバーンときてこわいです

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブル4:12
| 聖書 | 15:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
しっかり悩む 
あることで悩まされて祈っていると、このみことばから教えられました。


 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11

悩まされていると、「悩まされている」ということ自体が良くないような気がして、余計にしんどくなったりします。

でもこのみことばを読んで、すべては神様の御手のうちにあり、すべては神様の光に照らされて、希望につながっていく、と教えられました。

そして、悩まされていること自体がおかしいのではない。今の自分に必要な悩みなのである。だから悩みがどうやったらなくなるか、と考えるのではなく、今与えられている課題について、しっかり悩んでいくこと、そしてそこからしっかり学ぶべきことを学んでいくことが大事だ、と教えられました。

私がすることは、しっかりと悩まされ(通訳していいかえれば、今与えられている課題に真正面からしっかりと向き合い、主と共に正しい態度で取り組んでいく、ということかな)、その中でちゃんとみことばに従っていくこと。
そうすれば、必ず平安、将来、希望につながっていきますよ!

そう教えられました。感謝


| 聖書 | 14:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<< | 2/4PAGES | >>