日曜日 はえある主の日
ある日曜日の朝、私の心には不安がたちこめていました。
教会では様々な責任があり、プレッシャーがあり、恐れがあり、不安があり…
そんな中で、最近教えられたのは、
 
日曜日は「主の日」だ
ということを覚えることです。
 
天地を造られた偉大なる神様をたたえる。

十字架にかかってくださった救い主イエスキリストに、感謝する。

罪の赦しを、神との和解を、永遠のいのちを、天国の希望を感謝する。

思い切り賛美し、感謝し、ただ主を仰ぎ見、主を思う。

そのことに没頭する。そのための日。

そう思って、他のことはさておき、そのことに没頭すると、心に主にある喜びがパア〜とわいてきました。

 
「教会の日」というよりも、主の日。
まして「奉仕当番の日」ではない汗
「教会に行かなきゃいけない日」が来た…ではなく、
はえある主の日、この日ばかりは他のことを忘れて、天を見上げることに没頭し、思い切り主を賛美し、喜び楽しもう
主にある兄姉みんなで主を礼拝できるこの日を喜び楽しもう!
 
これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
詩篇118:24

感謝しつつ、主の門に、
賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
詩篇100:4

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、
わたしの聖日に自分の好むことをせず、
安息日を「喜びの日」と呼び、
主の聖日を「はえある日」と呼び、
これを尊んで旅をせず、
自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。
イザヤ58:13
私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。
詩篇27:4
 
| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
それはわざわいではない
 以前にエレミヤ書29:11から教えられたことを書きました。(2012年3月)

あれから、「どうして?」とわざわいのように思う出来事があるときに、いつもこのみことばを思い出します。

 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11

以前の記事を見直してみると、思ったよりコムズカシく書いてありました…
今励まされているのは、「それはわざわいではない」というフレーズです。


思うようにならないできごとがあると、わざわいのように思い、のろわれたような気分で沈んでしまいます。

そんなときに、「それはわざわいではない」を思い出すと、暗闇の中に一筋の光が射すように、心がパッと明るく、軽くなります。どんな出来事の中でも神様は私と一緒に、希望に向かって働いて下さいます。

「それはわざわいではない」

神から人間に光を与える、力強いことばだなあと思います。


| 聖書 | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
8月教えられたみことば
 もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。 
第1歴代誌28:9

強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだからー。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させて下さる。見なさい。神の宮のあらゆる奉仕のために祭司とレビ人の各組がいる。あらゆる奉仕のために知恵のある、進んで事に当たるすべての人が、どんな仕事にも、あなたとともにいる。  
28:20、21

この城は、人のためでなく、神である主のためだからである。 
29:1
アーメン。

人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれの報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
エペソ6:7、8
主からの報いを期待して、善意をもって仕えられますように。(特に家族にです…


| 聖書 | 21:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の立場をはっきりさせて生きる
すごく久しぶりになってしまいました。あまり間があくと、しょうもないことをかきづらくなり、何を書いていいかわからなくなってきました…

まあ細かいことは気にせず、少し前に教えられたことの一つを、久しぶりに書いておこうかと思います


先日礼拝メッセージで「ペテロの失敗」から教訓を学びました。地区集会で再度学び、私が印象に残ったのは、「立場、所属をはっきりとする」ということでした。

ノンクリスチャンだらけの状況で、クリスチャンは目に見えないプレッシャーを感じると思います(その中でクリスチャンとして生きようとすればですが。妥協して生きるならプレッシャーはないと思いますので…)。特に日本は仏教神道以外の宗教をしている人を怪しむところがありますし、欧米のような個人主義ではなく、「みんな一緒」であることを求められる空気がありますので、目に見えるわかりやすい迫害ではないかもしれませんが、目に見えないツラいプレッシャーが強くあると思います。そのような中で、クリスチャンであることを表明し、クリスチャンとして生きていくことは、とても大変なことであると思います。

しかし、「自分はキリストを信じている者である」、「キリストに属する者である」、ひいては「キリスト教会に属する者である」、そのことを自分の中ではっきりさせ、外にもその立場をはっきりとさせること、これがとても大事であると教えられました。大変なようですが、考えてみれば、ただ自分に正直である、ということなのです。シンプルに生きることです。

ところでクリスチャンにとって、キリストの救いをノンクリスチャンの方に伝えていくということは、聖書に書かれている神様からの使命です。

でも私は「話す」ことが苦手で、また、どちらかというと人に合わせようとしてしまうタイプなので、「キリストを伝える」、ということを考えると、プレッシャーで胃が縮まりそうになります。

でも上のように教えられて、ノンクリスチャンの中に出て行くとき、「自分の立場に正直に立つこと」「自分の所属をはっきりすること」、ただそれだけだ、と心に言い聞かせていました。すると、自然に教会の話になって、プレッシャーもあまり感じず、色々お話しできました。

「伝えなきゃ」と思うよりも、「自分の立場をはっきりさせて生きる」と思うほうが、私にとっては無駄なプレッシャーがなく、自然に証しができる、と思いました。人により様々であると思いますが、私にとってはこの「自分の立場をはっきりする」ということが、ノンクリスチャンの中でクリスチャンとして生きようとするときに、とても励ましとなっています。

これからも、どのような中でもゆるがされないで、自分の立場をはっきりさせて生きていけるように、力が与えられるように、願い祈ります。

ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
マタイ26:69〜

余談ですが、ドイツにいる兄が前にこんなようなことを言っていました。

日本では「私はクリスチャンです」と表明するだけで、ものすごいエネルギーを使わないといけないけど、ドイツでは「私はクリスチャンです」ということは、「私はイスラムです」「私は仏教です」みたいな自己紹介のようなもので、クリスチャンですということには何の苦労もない。日本のクリスチャンは大変だ。偉い。

みたいなことだったと思います。日本で「クリスチャンです」と公言して、クリスチャンとして生きている人は、本当にエラい!すごい!と思っていいと思いました。日本のクリスチャンに祝福あれ!

| 聖書 | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
カラスを使って養う神様
 「ここを去って
  …ケリテ川のほとりに身を隠せ。
  …わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。
  …幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。 
第1列王記17:3〜6


預言者エリヤは、いつも王様から命をねらわれ、ハラハラドキドキ、ギリギリの生活でしたが、いつも全能の神様の奇蹟の数々を見続ける生活でした。飢饉の時、神様は烏に命じてパンと肉を朝夕エリヤのところへ運びました。(ちなみにこの後ケリテ川の水が枯れると、今度は飢死寸前のやもめと子どもの家に住むように導かれ、かめの粉とつぼの油が尽きないという奇蹟によって養われます。)

神様の奇蹟を見続ける生活ってすばらしいなあと思いました。
(窮地に追い込まれるときに奇蹟があるので、奇蹟を見るには窮地に追い込まれることもセットになるのだとは思いますが。)
神様の奇蹟を見る生活を良いビジョンとして抱き、子どもたちにも神様が生きておられることを見せてあげられるような生活をしたいなあと思いました。

「神様が必要なものは与えてくださっていますよ。」と信仰によって子どもに言うことがあります。

でも私が実際に口スッパく言うのは「節約!」「それは買いません!」…言っていること自体は悪くないですが、問題は気持ちの部分なんですよね。気持ちが切羽詰まってしまっていて、神様が養って下さる、という主への信頼からくる心のゆとり、豊かさみたいなものが足りないような気が…。子供は親の本心の部分を、敏感に感じ取り、影響を受けていくものだと思いますので、反省しています

必要ならばカラスを使って養うことができる神様に信頼し、「ああだこうだとカリカリしてウルサい母」ではなく、「神様の御手による養いに信頼し、実際にそう成っていくことを見せてくれる母」でありたいと思います

追記:この記事を下書きした後で、先日ホワイト先生が水曜集会にきてくださり、ちょうどこの箇所からメッセージをしてくださいました。カラスの話とやもめの話から、「ささげることの祝福」を教えてくださいました。主のために仕え、ささげるとき、主は祝福して必要を備えてくださる。厳しい現状の中でもこの信仰をもって主のためにささげ、主からの祝福を信仰の目を持って期待する生活。すばらしいなあと教えられました。感謝します。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
第2コリント9:10













| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
みかん寒天
 シンプルなみかん寒天。慣れると本当にアッという間にできます。最近のうちの定番デザート。分量が定着したので覚え書き。

材料

みかん缶詰 1缶(内容総量425g)
粉寒天  1袋(4g)
砂糖   大さじ4くらい


作り方

① みかん缶詰の汁の量をはかって(だいたい200cc)鍋に入れ、全部で500ccになるように水を加え、粉寒天を混ぜてから火にかける。

② 沸騰してから2分間火にかけて寒天を完全に溶かし、火を止めて、砂糖を入れて溶かす。

③ 四角い型(うちではタッパー)に②を入れて、みかんの実を散らして入れる。粗熱がとれたら冷蔵庫で冷やす。

④ 切り分けて食べまーす。

家族4人で、ペロッと食べちゃう量です。
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内なる人を強くする
 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3:16



自分の心を強めるもの、元気になれるものを、人はみな求めて、日々すごしていると思います。それは必要なことですし、良いことだと思います。

でも、このみことばをよく味わったとき、私は、信仰をもって神様を仰ぐことをせず、目の前にあるもので手っ取り早く自分を強めようと必死になっていることを教えられました。

「あなたの内なる人を強くするのはわたしだよ。」

神様からそのように言われているような気がしました。

本当に私を強くしてくださるのは神様です。
そして天からくるその力は、無限大で永遠です。
そんな必死にならなくても大丈夫。
神様が強くしてくださると約束してくださっているんだから大丈夫。
神様にもっと信頼して、安心して生きたらいい。

そう教えられました。

「神様が私の内なる人を強くしてくださる」

少し不安になるとき、そう心の中でくりかえし、生きておられる主と主のことばに信頼し、希望と平安が与えられています。


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「自分の敵を愛する」を考える
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
マタイ5:44

 「自分の敵」「迫害する者」
…そう言われると、それなりに大変なことはあるにせよ、そこまで敵って言うほどの人でもないしなあ〜、迫害って言うほどのことでもないしなあ〜…と、このみことばを自分に適用するのがためらわれるところがあります。

でもみことばはきっと自分に必要なものだから、このみことばを自分のこととして適用しようとすると、どういうことになるのかなあと考えていて、思いついたのですが…

「敵」「迫害する者」
のところを、
「自分にマイナスダメージを与える人」
とイメージしてみると、ああ〜このみことばが自分のこととして迫ってくるなあ〜と思いました。そう考えると、いろいろな場面で、このみことばから励まされることができます。

自分になんらかのマイナスダメージを与える人を愛する、その人のために祈る、というのは難しいですね!自然とわき上がってくる自己中心的な感情とは逆ですから。でも、そうできるように、祈りたいと思います。


そう祈っていると思い出すのが、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というイエス様の十字架上の祈りです(ルカ23:34)。ステパノが、迫害されて石で打たれて死ぬときに、同じような祈りをしたことも思い出します。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」使徒7:60

神様から力をいただいて、少しでも見習いたい、と思います。

神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
エペソ4:32

だいたいが、自分自身がまわりの人々になんらかのマイナスダメージを日々与えている存在だと思いますから…スミマセン。

  
| 聖書 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
集中!
 他の人に対する批判や不満などを心に持っていると、自分自身のなすべきことに対する判断力に欠け、結局自分が失敗するなあと、最近教えられています。

人のことをああだこうだと思っている
注意散漫
自分が失敗するはめになる


ああ人のことをとやかく言っている場合じゃなかった、ちゃんと自分のことに集中するべきだった〜…反省。となります。

「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」マタイ7:5

物事を正しく判断したり、なすべきことをする力が10与えられているとします。

人のことをああだこうだと思っていると、その分だけ余分な力を使ってしまい、6くらいになるような気がします。

余計なことを考えないで、なすべきことに集中する。それが最近の私のテーマです!

あと最近その他に、過去のことをいつまでもくよくよ考えたりすることもそうだなと思いました。今日を生きる力が10与えられているのに、くよくよするとやっぱり6だか5だかくらいになってしまうと思いました。過去のことは過去にスパッと置いて、与えられている今日を生きる力をフル活用できるようにしたいです。
| 日常 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
サムソンのように、いのちを使う
そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
士師記16:30

サムソンは、決して模範的な人とは言えず、面白い話ではあるけれど、なんでこんなに聖書にページがさかれているのかなあと不思議に思う人です。でも最近、その最期から教えられています。

神から力が与えられていたサムソンは、自分の愚かさから出たことで、神の力が去り、敵に捕らえられ、両目がえぐりとられ、最期のときは偶像の宮で何千人の敵の前で笑い者になっていました。

でも最期に、「力を与えてください」と祈り、その宮をささえている柱を引いて宮を壊し、それまで生きてきた中で倒したすべての敵の数よりもたくさんの敵を、一度に倒して自分も死んだ、という話です。 

死ぬにあたって、せめて自分にできる限りのことをして死ぬ。ただでは死なないぞ。そんな意気込みを感じます。

その「死に方」、言い換えれば「与えられているいのちの使い方」、結局のところ「生き方」、になるでしょうか。そんなことを考えさせられました。

私はつらくなると、「ああ早く天国に行きたいなあ。」などと安易に逃避してしまいますが、そんなときにこのことを思い出すと、いやいや、ただで死んだらあかん!と思わされます。

同じ死ぬいのちなら、楽に何もしないでただ死んでしまうより、つらくても自分にできる限りのことをしっかりやって、与えられたいのちを意味あることに使って死にたいと思います。(「死にたい」というと消極的な響きがしますが、結局のところ、そのように「生きたい」ということですね。)

今でもよく、つらさから逃避してラク〜に生きたくなるときに、このことを思い出します。
| 日常 | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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